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議論を停滞させてしまってすみません。西村です。
>五島さん
>②「自分でないと詠めない歌」が何なのかが重要なのでは?
必ずしも実生活がそのまま歌に反映される必要があるとは思いませんが、たとえば私(元は船乗り)は海上生活の歌を詠うことはできてもパイロットになった歌を詠えません。船乗りの歌を他の未経験の方が詠んだ場合と私が詠んだ場合も他の方と私とでは目のつけどころが違うと思います。
その人の人生で積み上げてきた目でないと詠めない視点からの歌が「自分でしか詠めない歌」だと思います。必ずしも実生活そのままの歌ではないとしても、実生活やその人の人間性が裏側に見えないといけないと私は思います。
>③「言葉の持つパンチ力に頼った歌、奇をてらった歌」とは例えばどのような歌ですか?
一例を挙げると、穂村弘の
卵産む海亀の背に飛び乗って手榴弾のピン抜けば朝焼け
です。
>まだ肝心の「西村さんのいう実感」がどういう「実感」なのかがはっきり説明されていないと思いますので、説明していただければ幸いです。
実生活に基づいて感じたこと、というのが私の言う「実感」の定義です。ゆうさんの言う
1.ある一個人の、物理的身体で知覚される事柄
1.旧来的な実感の有り方―身体のみでのコミュニケーション(西村さんの言う「肉体の接触」)
が私の言う「実感」の定義です。
>ゆうさん
>肉体だろうが言葉だろうが等価な情報の一つでしかない、ということを前提としています。
>自分が生活で感じたことであっても、虚構や幻視であっても、詠まれてしまえば同じレベルにあるものだと思っています。
虚構や幻視は、肉体で感じた情報には敵わない、と私は思います。しかし、その存在価値までは否定できません。肉体的に知ることのできる情報だけではその量に限界があり、情報インフラに頼って生きざるを得ないからです。
私は虚構に頼って物事を考えることには非常に警戒感を持っています。
虚構に頼って生きざるを得ないのが今の社会です。ただし、その情報には何らかの恣意的動作が加えられている可能性がある、と常に意識する必要があると思います。
>にっしい
>「日常」という文脈とはまったく切り離された状態で、どうしようもなく不安になったりとか。
>不安の程度が小さければ、たとえば「日常」の景色とかに回収することができるけどね。
>でも、ほんとに自分自身がコントロール失ってしまうくらいの衝動あるいは抑うつみたいなものを表現しようとするなら、もはやそうしたものを「日常」のなかに見出す方法は表現に耐え切れないと思うんですよ。
自分自身がコントロールを失うくらいの抑鬱というものは私も抱えていますが、「日常」の中に乱す方法が表現に耐えられないものなのかどうか、それは私には分かりません。自分の歌に表現していないというか、今のところ表現できない領域だからです。自分の本当に言いたいこと、抱えていることを短歌で表現できたことはありません。
ただし、全く虚構や幻視の中で詠まれているのであろう歌の中に、私が抱えている自分自身がコントロールを失うほどの抑鬱を表現できた歌もまた存在しません。
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