投稿者
 メール
  題名
  内容 入力補助お絵描き<OBJECT>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ teacup.コミュニティ | 画像 ] [ お絵かき ] [ 検索 ]

投稿募集! スレッド一覧

他のスレッドを探す  スレッド作成

[PR]  アクトタウン   
teacup. ] [ 無料掲示板 ] [ プレミアム掲示板 ] [ みんなの掲示板 ] [ 無料ブログ ] [ チャット ] [ お絵かき twitter ]

全70件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。 1  2  3  4  5  6  7  |  《前のページ |  次のページ》 

管理人引継ぎのお知らせ

 投稿者:西之原一貴メール  投稿日:2003年 9月20日(土)22時25分17秒
  こんにちは。

学生短歌大会の掲示板ⅠⅡⅢの管理人を
水野ふみさんから、西之原が引継ぐことになりました。
今後の掲示板運営については、いま検討中ですが、
ここの場でやってきた議論を何らかの形で閲覧できるような
かたちにはしたいと思っています。

今後ともよろしくお願いしますm(_ _)m
 

おまつ。さん、天野さん

 投稿者:西村一人メール  投稿日:2001年12月25日(火)02時17分34秒
  書き込みありがとうございます。
お返事大変遅れまして申し訳ありません>おまつ。さん

私の方も、そろそろレポートというよりも論文の執筆に取りかからないといけないところです。「実感」について、書こうと思っています。

http://homepage2.nifty.com/Kazuto/

 

動いているのはこの掲示板?

 投稿者:天野 慶  投稿日:2001年12月23日(日)16時49分22秒
  掲示板Ⅲの方に関わることかもと思いつつもこちらに書きこみますね。
私の所属する短歌結社「短歌人」の1月号に学生短歌大会につてエッセイを
執筆しました。
「学生歌人たちの夏―相聞を巡る冒険」というベタなタイトルで、1ページ。
どこかで目にする機会があればよいのですが。
なるべくたくさんのひとに、あの夏のことを伝えたいですね。

http://www.ao-kei.ne.nu/

 

ひとり感想ごと

 投稿者:おまつ。メール  投稿日:2001年12月11日(火)07時54分15秒
  ごぶさたしてます。
少し静かな感じがするので、一人、ここまでの感想を書いてみようかなと思います。

「実」のなかに「虚」を見出す・日常のなかに非日常を見出す歌っていうのは、
まみチャンのお手紙からひろえば、

ティーバッグ破れていたわ、きらきらと、みんながまみをおいてってしまう
うつくしい渦巻きたちに囲まれて気が遠くなるかたつむり園

なんかが、分かりやすくて、その典型みたいなものでしょうか。
破れたティーバッグや、かたつむり園っていう日常の出来事が、作中主体の存在の
危機意識(「みんながおいていく」とか「気が遠くなる」とか)を「回収」している
という歌。
どんな日常が、作者のどんな意識と結びつくのが良いか(偶然であれ恣意的であれ)、
この結びつき加減を追求していくスタンスを、確かに今まで数え切れない多くの
方たちが取っておられて、にっしいの目からすれば、それが「没個性的」に映る面が
あるのですね。
歌の内容に個性が有る・無いはともかく、歌を作る方法として、このスタンス以外
のものが打ち立てられれば、「日常」や「実」に頼らない、もっと回収不可能で
未整理な自己を表現できる、と云う。これは大きな魅力ですねえ。
バーチャルリアルと消費のはびこる社会で、実感の真偽に疑いをもち始める結果、
「自分自身がコントロールを失うぐらいの衝動・抑うつ」の表現を模索するには、
そういうスタンスの変革が必要なのかもしれません。しかし...

なんだか解釈を間違うと、意識と無意識に任せて言葉を殴り書く、自動記述に
走っていってしまいそうで、そんなものはとうてい三十一文字の器に収まる
もんじゃない気がします。

まあ、↑は僕の誇大解釈ですが、その、自制心を失うほどの衝動・抑うつを表現
する術として、穂村弘はどこまで有効か。これはまた別問題だと思うわけです。

閃光ののち、しましまの、うずまきの、どうぶつだけが生まれる世界

にっしい曰く
>「まみ」とその周りの世界とのつながりは
非常に漠然とした希薄なものです。

ということで、にっしいの主眼は、作中主体の衝動・抑うつが、周りの世界に
まなざしを向けきれていないという、衝動・抑うつの「状態」に注がれている
わけですが、これ一首だけでは、詩として、作者と読者の関係が不釣合いの気
がするのです。この歌には、まみの存在の根拠を揺さぶる衝動・抑うつは存在
していそうですが、それを読み手にどう消化させようとしているのか、なんか
衝動・抑うつを見せたらそれで終わり、っていうところが引っ掛かるのです。
僕は、詩において、作者と読者がともに見つめあうべきは、そういう衝動・
抑うつの「状態」に加えて、衝動・抑うつの沸いてきた「源」だと、ちょっと
思っています。その衝動・抑うつ、「あやしい思い」はどこから来たのか。
それを読者が感覚で遡りうる指標が、また別に必要なのかもしれないと、思い
ました。
ちょっと後半、言ってることにまとまりがないかもしれません。
後に撤回の余地がある箇所も出てくるかとも思います。
 

補足です。

 投稿者:西村一人メール  投稿日:2001年11月30日(金)02時55分20秒
  補足です。

> ただし、全く虚構や幻視の中で詠まれているのであろう歌の中に、私が抱えている自分自身がコントロールを失うほどの抑鬱を表現できた歌もまた存在しません。

 ということですが、虚構で詠まれているか否かに関わらず、私が抱えている抑鬱を表現できた歌は一首も存在しないです。これは短歌だけではなくて、どんな表現ジャンルにおいても存在しません。

http://homepage2.nifty.com/Kazuto/

 

遅くなってごめんなさい。

 投稿者:西村一人メール  投稿日:2001年11月30日(金)02時52分54秒
  議論を停滞させてしまってすみません。西村です。

>五島さん
>②「自分でないと詠めない歌」が何なのかが重要なのでは?

 必ずしも実生活がそのまま歌に反映される必要があるとは思いませんが、たとえば私(元は船乗り)は海上生活の歌を詠うことはできてもパイロットになった歌を詠えません。船乗りの歌を他の未経験の方が詠んだ場合と私が詠んだ場合も他の方と私とでは目のつけどころが違うと思います。
 その人の人生で積み上げてきた目でないと詠めない視点からの歌が「自分でしか詠めない歌」だと思います。必ずしも実生活そのままの歌ではないとしても、実生活やその人の人間性が裏側に見えないといけないと私は思います。

>③「言葉の持つパンチ力に頼った歌、奇をてらった歌」とは例えばどのような歌ですか?

一例を挙げると、穂村弘の

卵産む海亀の背に飛び乗って手榴弾のピン抜けば朝焼け

です。

>まだ肝心の「西村さんのいう実感」がどういう「実感」なのかがはっきり説明されていないと思いますので、説明していただければ幸いです。

 実生活に基づいて感じたこと、というのが私の言う「実感」の定義です。ゆうさんの言う

1.ある一個人の、物理的身体で知覚される事柄
1.旧来的な実感の有り方―身体のみでのコミュニケーション(西村さんの言う「肉体の接触」)

が私の言う「実感」の定義です。

>ゆうさん
>肉体だろうが言葉だろうが等価な情報の一つでしかない、ということを前提としています。
>自分が生活で感じたことであっても、虚構や幻視であっても、詠まれてしまえば同じレベルにあるものだと思っています。

 虚構や幻視は、肉体で感じた情報には敵わない、と私は思います。しかし、その存在価値までは否定できません。肉体的に知ることのできる情報だけではその量に限界があり、情報インフラに頼って生きざるを得ないからです。

 私は虚構に頼って物事を考えることには非常に警戒感を持っています。
 虚構に頼って生きざるを得ないのが今の社会です。ただし、その情報には何らかの恣意的動作が加えられている可能性がある、と常に意識する必要があると思います。

>にっしい
>「日常」という文脈とはまったく切り離された状態で、どうしようもなく不安になったりとか。
>不安の程度が小さければ、たとえば「日常」の景色とかに回収することができるけどね。
>でも、ほんとに自分自身がコントロール失ってしまうくらいの衝動あるいは抑うつみたいなものを表現しようとするなら、もはやそうしたものを「日常」のなかに見出す方法は表現に耐え切れないと思うんですよ。

 自分自身がコントロールを失うくらいの抑鬱というものは私も抱えていますが、「日常」の中に乱す方法が表現に耐えられないものなのかどうか、それは私には分かりません。自分の歌に表現していないというか、今のところ表現できない領域だからです。自分の本当に言いたいこと、抱えていることを短歌で表現できたことはありません。
 ただし、全く虚構や幻視の中で詠まれているのであろう歌の中に、私が抱えている自分自身がコントロールを失うほどの抑鬱を表現できた歌もまた存在しません。

http://homepage2.nifty.com/Kazuto/

 

「実」と「虚」

 投稿者:にっしいメール  投稿日:2001年11月22日(木)05時16分44秒
  五島さん、ゆうさんの「実感」に対する疑問については、
西村さんからの答えが待たれるところですが、
ひとまず、僕の主張について若干の整理と補足をさせてください。

「どういう歌を作っていきたいか」という文脈のなかで、
「実」の中に「虚」を見出すやり方では限界があるのではないか、
ということを、ぼくは述べました。
「実」「虚」という言葉は舌足らずだったと反省しているのですが、
これは、「日常」の中に「非日常」を見出すやり方、というような意味で
僕は言ったつもりなんです。
「日常」というのも厳密に定義すると形而上学的になってしまいますが、
作歌の方法という文脈上、作者が「日常」と認識している世界、
あるいはそれを構成している事物という程度の考えで話を続けますね。
(ちなみに、「世界」の厳密な定義はここでは避けますが、
もし今後の議論に差し支えが出るということでしたら、
機を改めてコメントしたいと思います)

ところで、「日常」に回収されない非日常性というものも結構少なくないんじゃないか
とぼくは思うんです。
「日常」という文脈とはまったく切り離された状態で、どうしようもなく不安になったりとか。
不安の程度が小さければ、たとえば「日常」の景色とかに回収することができるけどね。
でも、ほんとに自分自身がコントロール失ってしまうくらいの衝動あるいは抑うつみたいなものを
表現しようとするなら、もはやそうしたものを「日常」のなかに見出す方法は表現に耐え切れないと思うんですよ。

そういうわけで、「実」の中に「虚」を見出す、
いや、「日常」のなかに「非日常」を見出す表現方法に限界があるのでは、と。
 

初登場。

 投稿者:ゆう(中島裕介)メール  投稿日:2001年11月21日(水)05時39分12秒
  こんにちは、「ゆう」こと中島裕介です。
現在の、「実」と「虚」、歌に対するその立脚点についての議論に私も参加させてください。

まず、議論の根底を確認させてください。

ここで述べられている「実」と「虚」という部分が、
皆さんの書き込みでは今まで鉤括弧付きで語られているのですが、
もう少し別の言葉で詳述していただけませんでしょうか?
私が読む限りで、ですが、
「実」…西村さんが最初に言った「実感」/作者(あるいは、作中主体)の生活、または生活する環境
「虚」…作者の作為的な虚構(フィクション)/読者が1首を象徴として恣意的に読み取った解釈
のようにそれぞれ違った意味でも(私が)誤読してしまう使われ方をしているので、
西村さんとにっしいさんの議論がすれ違っているようにも見えるのです。

特に、「実感」と一言に言っても、
1.ある一個人の、物理的身体で知覚される事柄
2.物理的身体に加えて、(携帯)電話やe-mailのような、電子的なものから知覚される事柄
端的に言い換えれば、
1.旧来的な実感の有り方―身体のみでのコミュニケーション(西村さんの言う「肉体の接触」)
2.現代的な実感の有り方―身体+仮想現実のコミュニケーション
の2通りがあると思われるのです。
#もしかすると、この後者も、「虚」に数えいれることが出来るでしょうね。
情報に置き換えられたものは等価ですから。

そして、私が歌の基盤として置くものは
「身体+仮想現実のコミュニケーション」であり、虚構としての「虚」です。
つまり、肉体だろうが言葉だろうが等価な情報の一つでしかない、
ということを前提としています。
自分が生活で感じたことであっても、虚構や幻視であっても、
詠まれてしまえば同じレベルにあるものだと思っています。
#この点で、穂村氏に近いスタンスに私はあると言えるでしょう。

「世界」という言葉の不明確さを西村さんも指摘なさってますが、
「実感」と同じように説明していただきたく思います。
恐らく、「肉体が生活している範囲」という意味での「世界」だと思われますがどうでしょう。

では、また。
 

遅ればせながら。

 投稿者:五島諭  投稿日:2001年11月19日(月)18時08分0秒
  西村さんの質問にお答えします。

>go toさんは私がどのような歌に価値を置き、どのような歌を詠もうとしていると思いますか?

「実物」や「実景」に重きをおき、
幻視のようなものがあまり好きではない。
一般的で、共通の感覚、
さらに言えば、ある種の「歴史的物語」(たとえば「恋愛」)に沿った感覚の歌により重きをおく。
さらに現代(ごく最近。おおまかには、バブル以降)に対する危機意識があり、
その意識から、それ以前に形成された「実感」に沿う感覚がある歌に重きをおく。
実生活を主題に取った歌に重きをおく。

多少かぶっている項目もありますがだいたいこんな感じだと理解しました。
少なくとも私にはそう見えました。
西村さん自身が3つの項目を出して書いている、
歌への姿勢については、少々物足りなさを感じます。

>①相手にちゃんと歌意が伝わる歌を詠みたいです。それも国語に対する専門教育を受けていない
>人が一読しても歌意が伝わるような言葉で詠みたいです。
>②歌の裏側に詠み手の人間の息づかいが聞こえる歌を詠みたいです。歌が私小説だとは私は思い
>ませんが、読み手に主人公がどんな人間で何を思って生きている人なのか分かる歌を詠みたいで
>す。自分でないと詠めない歌を詠みたいです。
>③感じたことをより巧く相手に伝えるための技法については積極的に取り入れたいと思っていま
>す。しかし言葉の持つパンチ力に頼った歌、奇をてらった歌を詠みたいとは思いません。感じた
>ことを素直に詠いたいです。

①はほぼ一般論。
②「自分でないと詠めない歌」が何なのかが重要なのでは?
③「言葉の持つパンチ力に頼った歌、奇をてらった歌」とは例えばどのような歌ですか?

それから、「実感を喪失した歌」というのが、
「西村さんのいう実感とは相容れない歌」であるというところまでは推測できたのですが、
まだ肝心の「西村さんのいう実感」がどういう「実感」なのかがはっきり説明されていないと思いますので、説明していただければ幸いです。


 

作中主体の自己のあり方

 投稿者:西村一人メール  投稿日:2001年11月18日(日)03時12分29秒
  西村です。

にっしい書く
> 「実」の中に「虚」を見るやり方は、
>「実」という対象と、そこにまなざしをむける自己との結びつきを前提としています。
>この方法では繊細な感情は表現できても、
>世界に対してまなざしをむける余裕がないような自己のあり方は
>表現するのは不可能である。そういう意味で、限界があるのではないか、と。

 おっしゃっていることが私にはよく分かりません。
 「実」の中に「虚」を見る方法が対象とそこに目を向ける自己との結びつきを前提にしている、と言うことは分かります。ただ、「世界に対してまなざしを向けるような余裕がない自己のあり方」と言うものがどのようなものなのかが私には分からないです。この場合、「世界」がglobe(地球)のことを指しているのかspase(宇宙)のことを表しているのか、それともそういう現実の「世界」とは遊離した別次元のことを指しているのか。

> 閃光ののち、しましまの、うずまきの、どうぶつだけが生まれる世界
> 何という無責任なまみなんだろう この世のすべてが愛しいなんて

 作中の「まみ」の眼差しのあり方は、作中の主体(この場合ならカタツムリ)が存在しようとしていまいと関係なさそうなものだと思います。カタツムリのことを詠っているけど、この歌は対象がカタツムリじゃなくても愛玩するものであれば何でも良さそうですね。
 でも、この歌は「実」を詠んでいないでしょうか?初めの歌の「閃光ののち」の意味は分かりませんが、目に見えている実物そのものを詠んでいる気がします。「閃光」によって自分がかたつむり園の住人になったように視点が変わったと考えれば、人間の視点でありながらかたつむりと同じ大きさの視点に変わって詠んでいる、だから「実」の中に「虚」を詠んでいる、とも考えられますが。

 二首目に関しては「それで何?」としか僕は思わなかったので、コメントは避けます。

 どちらの歌にしても、これが「実」の中に「虚」を見るやり方では表現できない自己のあり方なのだ、と言うのはよく分からないです。

http://homepage2.nifty.com/Kazuto/

 

以上は、新着順1番目から10番目までの記事です。 1  2  3  4  5  6  7  |  《前のページ |  次のページ》 
/7 


[PR]